2005.04.30



和歌の浦は、万葉の歌人、山部赤人の歌一首によって全国にその名を知られました。


神亀元年(724)聖武天皇は始めて玉津島に行幸し、和歌の浦の景観を絶賛して、景観保全のために番人を置き、地霊祭祀の制度を定めました。

赤人の歌はその時に作られた玉津島賛歌の反歌の一首です。


当時紀ノ川は、河口を和歌の浦に大きく開き、そこに小島を6つ浮かべていました。

それが、玉津島でした。

現在それは、妹背山、鏡山、奠供山、雲蓋山、妙見山、船頭山の名で呼ばれ、妹背山一つを海上に残して全て陸地化している。

しかし、1300年昔、赤人が「神代よりしかぞ貴き」と賛えた玉津島山の面影は、鏡、奠供、雲蓋の3つの岩山にも今も見ることができます。

この万葉の「若の浦」は、平安時代に入って「和歌の浦」となり、歌枕の代表として近世の終わりまで無数の詩的イメ−ジを生みました。

一方、現実の和歌の浦の地形は、自然的、人工的に古代以来変遷を重ねました。

人工的変化は近世からが著しい。

玉津島神社、天満宮、東照宮、海禅院多宝塔、観海閣、不老橋はみなこの期の造営です。




和歌の浦 歴史と文学 から
むかしの和歌の浦へ
 (玉津島神社)

 「続日本紀」の神亀元年(724)、聖武天皇が行幸して玉津島に仮営を営んだことが記録のうえで最も古く、「弱浜(わかのはま)」と呼ばれていたのを景勝にちなみ「明光浦(あかのうら)」と称し、風致を守るために守戸をおきました。
 
 和歌浦の核をなす玉津島は、今は小山であるが、古くは潮の干満により干潟が現れたときに陸とつながる小島でありました。

 玉津島神社の祭神は、稚日女尊(丹生津比女神)と息長足姫尊(神功皇后)の2神で、のち衣通姫を合祀しました。また、明光浦の霊を加えて4柱を祀っています。
 
    玉津島神社
(玉津島を詠める萬葉歌)

 玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため

 玉津島 よく見ていませ あをによし 平城なる人の 待ち間はばいかに

 玉津島 見てし善けくも 吾は無し 都に行きて 恋ひまく 思へば

 不老橋
 ( 不 老 橋 )

 不老橋は、片男波松原にあった東照宮御旅所の移築に際して紀州徳川家10代藩主であった徳川治宝の命により、嘉永3年(1850)に着工し、翌4年(1851)に完成したア−チ型の石橋です。

 この橋は、徳川家康を祀る東照宮の祭礼である和歌祭の時に、徳川家や東照宮関係の人々が御旅所に向かうために通行した「お成り道」に架けられたものです。

橋台のア−チ部分については、肥後熊本の石工集団の施工です。

 勾欄部分については、湯浅の石工石屋忠兵衛の製作と推定されています。

 この勾欄部分には、雲を文様化したレリ−フがあります。

 江戸時代のア−チ型石橋は、九州地方以外では大変珍しく、特に勾欄部分の彫刻が優れているとのことです。









(鹽竈神社)

 和歌山独特の青石をくり抜いて作ったようになっている祠は、海風蝕によって自然に出来たもので、祠の中には、小さな拝殿が設けられています。

 「安産の守護」として有名です。

 もともとは玉津島神社の祓所で、興ノ窟(おきのいわや)、窟(いわや)神社などと言われていました。

 大正6年に現在のような独立した神社となり、安産祈願の神社として、たくさんの方がお参りに訪れています。





 鹽竈神社

  三断橋と妹背山

 観海閣

 海禅院多宝塔
(海禅院多宝塔)
 慶安2年(1649)、紀州家初代藩主徳川頼宣の生母養珠院(お万の方)が、亡父徳川家康の33回忌追善供養のため、多数の小石に書写した法華経題目を妹背山に埋納しました。
 その上に建てた小堂に始まります。

 その後、頼宣が養珠院(お万の方)を弔うため、明暦元年(1655)に多宝塔を建立されたと考えられています。

 多宝塔は、高さ約13mの本瓦葺欅造です。

 宝塔内には、巨大な題目碑を安置し、その背面には建立の由来が書かれています。

 和歌山市指定文化財(建造物)となっています。

 (三断橋)
 入江に浮かぶ妹背山に徳川頼宣が多宝塔を建立するとき、中国の杭州の西湖の六橋を模して架橋されたといわれている。

 (観海閣)
 観海閣は、古くから天の橋立、三保の松原と共に、天下の景勝地として知られた和歌の浦に立つ楼閣建造物です。

 江戸時代初期の慶安年間、紀州徳川家初代頼宣は、この地を非常に愛し、妹背山東方の海に臨んでこの観海閣を建立したといわれています。

 頼宣は、母の霊を養珠寺多宝塔に拝んだのち、この楼閣から遠く紀三井寺を遙拝したとも伝えられています。

 昭和26年6月、日本観光地百選にちなんで観海閣を意匠した観光絵葉書として広く世に紹介されました。

 しかし、昭和36年(1961)9月16日の第二室戸台風により倒壊し、昭和38年に鉄筋コンクリ−ト製で再建されました。
(天満宮)

 天満宮は、東照宮の西の雑賀山の中腹にあり、和歌浦を一望できる絶好の地です。

 「名所図会」に、延喜元年、道真が太宰府に左遷されるとき風波をさけて和歌浦に立ち寄ったが、その後、康保年間に橘直幹が太宰府から帰洛の途中当地に立ち寄り道真を追想して社殿を建立し神霊を勧請したのに始まると言われています。

 祭神は菅原道真です。

学問の神様と言うことから、近年、受験の合格祈願の参拝や、正月2日の書き初めも盛んである



 天満宮

 東照宮
紀州東照宮

 紀州藩の徳川頼宣は、東照社を和歌の浦に勧請するが、その造営は元和6年から7年にかけて行われ、7年11月24日本社の正遷宮が行われました。

 漆塗り、極彩色の精巧な彫刻、狩野、土佐両派の絵によって荘厳された豪華さです。

 左甚五郎の彫刻の多いのも稀有ですが、楼門の朱塗り極彩色は、関西唯一といわれます。

 武具類、陶器、絵画などの宝物の他、重要文化財の刀剣、衣料などが秘蔵されています。  

 元和8年(1622)4月17日に祭礼(和歌祭り)が始められた。

 和歌祭りは、古くは、日本三大祭、紀州の国中第一の大祭と呼ばれた紀州東照宮の大祭の渡御の呼称です。


 家康を祀る東照社は、正保2年(1645)に宮号が宣下されて、東照宮と改称されました。
これらの所在地は、和歌山県和歌山市和歌浦中三丁目、和歌浦西二丁目です。
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